なぜ「上手い日記」ほど、つまらなく感じてしまうのか?〜余白を嗜む〜

日記を読んでいて、こんな経験はないだろうか。

文章はきれい。
構成も整っている。
言いたいことも分かりやすい。

なのに、なぜか心に残らない。

一方で、
文法もめちゃくちゃで、
オチもなくて、
何が言いたいのか分からない日記のほうが、
やけに記憶に残ったりする。

この違いは何なのか。


「上手い日記」は、日記じゃなくなっている

まず前提として、
日記が本来持っている魅力は、

・途中の感情
・整理されていない思考
・その日のままの温度

こうした未完成さにある。

ところが、文章が「上手く」なりすぎると、

・分かりやすくまとめる
・読み手を意識しすぎる
・結論を用意する

こうした編集が入り始める。

するとそれはもう、
日記というより「エッセイ」や「文章作品」になる。

悪いわけではないけれど、
日記特有の生っぽさは、そこで消えてしまう。


日記の面白さは「感情の途中」にある

日記がエモい瞬間って、

・気持ちが揺れている
・まだ答えが出ていない
・本人もよく分かっていない

そういう状態が、そのまま残っているとき。

でも「上手く書こう」とすると、
人は無意識に感情を整理してしまう。

・つまり〇〇だった
・今思えばこういうことだ
・この経験から学んだこと

こうした言葉が増えた瞬間、
感情は一気に“過去形”になる。

読む側が惹かれるのは、
整理された答えより、
揺れている途中の心だったりする。


読み手の居場所がなくなる

上手く書かれた日記は、
書き手がすべて説明してくれる。

でもそれは同時に、
読み手が入り込む余白を奪うことでもある。

日記の魅力は、

「これはどういう気持ちだったんだろう」
「自分ならどう感じるだろう」

と、読者が勝手に考えられるところにある。

説明しすぎた日記は、
その余白がない。

だから「正しい文章」なのに、
心には残りにくい。


「うまさ」は安心、「雑さ」は信頼

少し極端だけど、
上手な文章は「ちゃんとしている」。

ちゃんとしている文章は、
どこか他人行儀にも感じる。

一方で、
雑で、整っていなくて、
感情がはみ出している日記は、

「これは本音だな」
と感じやすい。

人は、
完成度よりも本音の気配に反応する。

だから、
多少読みにくくても、
正直な日記のほうが心に残る。


書く側にとっても「上手さ」は邪魔になる

日記を書く側にとっても、
「上手く書こう」とする意識は厄介だ。

・言葉を選びすぎる
・感情を丸くまとめる
・人に見せる前提で書く

こうなると、
日記は自己整理の道具ではなく、
パフォーマンスになってしまう。

本当はモヤモヤしているのに、
きれいな文章でごまかす。

それは、
日記として一番もったいない使い方かもしれない。


日記は、下手でいいし、雑でいい

日記に必要なのは、

・うまさ
・分かりやすさ
・完成度

ではない。

必要なのは、
その日の自分が、そこにいること。

後から読んで、
「このとき、こんなこと考えてたんだな」
と思えれば、それで十分。

もし誰かが読んで、
そこに何かを感じてくれたら、
それはたまたまの副産物だ。


まとめ:日記は「上手くなるほど、日記じゃなくなる」

上手い日記がつまらなくなる理由は、

・感情が整理されすぎる
・余白がなくなる
・本音が隠れてしまう

から。

日記は、
途中でいい。
ぐちゃっとしていていい。
意味がなくていい。

むしろ、そのほうが、
読む側にも、書く側にも、ちゃんと残る。

「上手く書けてないな」と感じる日記ほど、
あとから読むと、一番エモかったりする。

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